存在としての不安
いつから、いつからだろう。
父親がわりに年上の人とばかり関係を持ったことも。
信頼していた人が結婚してしまったことも。
大切な友だちをどこか遠くに感じるようになったことも。
手首を切らなくなった私は、
また、後戻りすることなどないと過信していた。
本来自分はとても弱い人間であることを忘れていた。
駅へ向かう車の中、
「コーヒー飲む?カフェでも行こうか?」と問う優しい声を聞きながら、
私の意識は宙に浮いた。
水位が急に上がってくるのが分かる。
私は溺れているようだった。
上擦った、醜く甲高い声がする。私だ。
完全に自分からすり抜けた私は、他人事のように思った。
車は、おそらく日本で最も有名なコーヒーチェーン店へ到着した。
すり抜けるように助手席から降りると、
外の空気を吸い込んだ。
明日には雪が降ることを、私も知っている。
店内は暖かく、ゆっくりとした空気が流れていた。
「カフェラテ、ホット、トールで」
「ココア、ホットのトールお願いします」
注文を済ませると、大学生のような風貌のスタッフは、明日から始まるというバレンタイン商品の説明をして、「また是非お二人でいらしてくださいね」と言った。
あぁ、恋人同士に見えたのかと思い、心がぐちゃぐちゃになる気がした。
私はすんでのところで感情を消した。
そして、「美味しそうですね~!またきます」と嘘をついた。
それから3時間、私たちは店内の窓際の席で取り留めなく雑談を続けた。
今日、私を不安な気持ちで帰すことにならないよう、気を使われていることは分かっていた。
だから明るく振舞ったし、不安な素振りなど見せなかった。
いつもそうだ、助けてと言えない。
そしてそのまま駅まで送ってもらい、近所のコンビニでカッターを買って家に帰った。
つまりはそういうこと。
悲しいことなんて、大体は仕方の無いことばかりだ。
生まれた時から決まっていたことに対して、
ここ何年か知り合った私が我儘を言えるわけがない。
私だって、もしかすると、生まれた時から手首切って泣きじゃくる毎日が確定していたのかもしれない。
そう思うと、余計にこみ上げてくるものを抑えられなかった。
寂しさを埋め込まれた
隙間にあるもの
寂しさの隙間を、ありありと突きつけられることがある。
夏休みの夕暮れに、電気をつけ忘れて本を読みふけっていたあの時。
辺りの暗さに気づいて、ふと外に目をやる。
そして、次の瞬間、本に目を戻した時、読めていたはずの文字は、すっかり闇に紛れてしまい、見えなくなっているのだ。
手元にある物語から強制的に引き離されてしまい、それでいて、我に返るには、頭が上手く動いていない感覚。
蝉の声もなりやんでいて、隣の家から聞こえる、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
すぐ側の机に手を伸ばし、水滴で濡れたコップを持ち上げると、カラリと氷が鳴った。
私はあの時ほど、寂しさの隙間に嵌って動けなくなるような経験はないと思っている。
今の私の日常は、音に溢れている。
隣の家の笑い声を気にせずとも、スタジオに行けば、たくさんの人と笑い合って話が出来る。
友だちと喫茶店に行って、メロンクリームソーダを飲めば、暑さも嫌いではなくなるような気がする。
それでも、あの瞬間が、時々帰ってくる。
そして、その時私は、ある種の懐かしさを感じてしまう。
毎日悲しいし切ないのだけれど、夏は、よりいっそうだ。
死が一番近い季節。
夏休み、最後の日に死んでしまう人たちは、
8月32日へ向かっているのだろうか。
ドライブ
隕石が落ちてくる街を眺める話
わざと、真っ暗にしてる部屋の中。
パソコンの明かりは薄らと私を照らしていた。
SLAYERとMEGADETHのCDをウォークマンに入れる。
午後の紅茶のシトラスティーが、ひたすらに甘くて、辟易としていた気がする。
読み込み中という文字をパソコンが表示している。
時間がかかりそうだったので、適当なスープを冷蔵庫から取り出して、電子レンジにかける。
残り時間のカウントダウンをぼうっと見つめていた。
多分残り25秒くらいだったと思う、私の携帯から、けたたましく鳴り響くNIRVANAの着信音。
画面には好きな人の写真が映し出されている。
電話に、少し震えそうな声を、必死に抑えて応じる。
「元気にしてたー?」
どうやら、私のバイト先に行ったものの、既に私は退勤していた後だったので、なんとなく気になって連絡してきたらしい。
どんな流れか、夜景を見に行くことになる。
紺色のワンピースに、灰色のカーディガン羽織って家を飛び出した。
携帯の充電は16%だったし、パソコンは放ったらかしにしていた。
私たちは、無事再会を果たして、北へ進む。そして突き当たった山をどんどん登って、神社のような場所に出る。
車を降りた私たちは、ほぼ同時に空を見上げた。
星が降るような夜、とはよく聞くけれど、
そんな夜だと思った。
好きな人は、私のことが心配で仕方が無いと言う。
過保護になりすぎてしまいそうだと。
私は言う、
「なんとかやっていっているではないですか。これでも、頑張っているのですよ」と。
好きな人は少し困った顔をしながら、そうだねぇ、なんとか頑張っているのはよく分かるよと、小さな声で呟いた。
私たちは手を繋いだまま、夜景をぼうっと眺めた。
夜景は綺麗で、夜行性の私たちのような人たちの存在が、沢山あるのだなと思った。
そんなことを考えていたら、唐突に好きな人が口を開く、
「本当に、星が降ってきたら。とか考えてしまわない?」
私は、夜景から目をそらさずに答える。
「それを、真剣に考えてしまうと、たくさんの隕石襲来で大パニックですね。」
目を伏せてそれへの返答。
「うーん。まず街は燃えてしまうだろうねぇ。ここは大丈夫だといいな」
好きな人の方へ向き直る私の言葉。
「今日、ヒールを履いてきてしまったので、できればスニーカーが良かったですね。あちこち歩き回って、必要なものを探したりしなければならないでしょう」
ああ、本当に、今この瞬間、私たちが住む街が終わっていくのを見たかったような気がした。
この場所はとても素敵な場所なので、燃えたりしないでしょうし。
眠る前の考え事
誰もが目をそらすようなこと、
例えば道の上で動かなくなった猫とか。
昨日そういえば、お兄さんと二人でいる時に見かけたのだけれど、
二人して、斜め前の学習塾の看板を必死に見つめて、目をそらしたりしていた。
信号待ちの間、ずっと見ていたのに、塾の名前すら覚えてない。
意識は、そちらに行っていたんだろうな。
同じトンネルを、2度も潜ってしまうミスとか。
静かだったから、それらを考えていた。
今、私の目の前、甘夏がころんと転がっている。